2006年07月21日

暗中飛躍

●50.暗中飛躍(あんちゅうひやく)

【意味】人に知られないようにひそかに活動すること。主に政治的な話題で多く使われる。「飛躍」は、高くとびあがることから、盛んに活動することを指す。

※参考
 この熟語を略したものが「暗躍」です。「暗躍」というと、普通は否定的な、あまり好ましくない意味合いで使われることが多いですが、「暗中飛躍」自体に含まれる「飛躍」は本来好ましいニュアンスを秘めているので、「暗躍」=「暗中飛躍」は、好ましい意味でも用いられます。その場合は、人知れず「活躍する」というニュアンスが前面に出て、策動するというイメージは後退することになります。

 暗中飛躍は、「活動」の意味づけの方向によって、肯定的にも否定的にも解されますが、どちらかといえば否定的な用法が多く見られるのは、やはり「暗中」の「暗」という字が一般に否定的なニュアンスを強く持つからでしょうか。「暗愚」のように「暗」には道理や知識に暗い、という意味もありますし、全体として「暗」のつく語には好ましくない意味合いが含まれていることが多いのは事実です。

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2006年07月20日

安宅正路

●49.安宅正路(あんたくせいろ)

【意味】仁と義をたとえたもの。「安宅」は、安心して身をおくことのできる場所(家)のことで、仁のたとえ。「正路」は、正しい道のことで、義のたとえとして使われている。「仁」は、いつくしみや思いやりを指すことばで、「義」は、人として守るべき正しい道を指すことば。ともに儒家の道徳思想の中心概念である。

【出典】『孟子』(離婁<りろう>・上・第十章)の以下の一節から。
 「仁人之安宅也、義人之正路也。曠安宅而弗居、舍正路而不由、哀哉。」(仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。安宅を曠<むな>しくして居<お>らず、正路を舎<す>てて由らず。哀しいかな。)
 「仁は、人が安心して身を置ける家であり、義は、人の踏むべき正しき道である。安全な住居を空にして住まず、正しき道を捨てて通らないのは残念なことだ。」という意味。

 この一節は「孟子曰、自暴者不可與有言也、自棄者不可與有為也。言非禮義、謂之自暴也、吾身不能居仁由義,謂之自棄也。」(孟子曰く、自ら暴<そこな>う者は、与<とも>に言うあるべからざるなり。自ら棄つる者は、与に為すあるべからざるなり。言、礼儀を非<そし>る、之を自ら暴うと謂い、吾が身仁に居り義に由ること能わずとす、之を自ら棄つると謂う。)に続くものです。
 意味は、「孟子が言われた。自ら自分を駄目にしてやけくそになっている人間とは、一緒に語り合うことはできない。自ら諦めてすてばちになっている人間とは、一緒に仕事はできない。発言によって礼儀を非難する者を自暴といって、自分のような身では仁や義を行うことはできないという者を自棄という。」というものです。
 また、ここから出たことばが「自暴自棄」です。よって、安宅正路は、孟子が「自暴自棄」になっている者は「安宅」を無にし、「正路」を通らないと嘆き、「安宅」や「正路」にたとえられる「仁」や「義」こそ大切なのだと主張したところから出たことになります。

 また、「安宅」と「正路」をそれぞれ「仁」と「義」になぞらえた表現は、『孟子』の他の部分にも見られます。
 公孫丑・上・第七章には、「夫仁天之尊爵也、人之安宅也」(夫<そ>れ仁は天の尊爵なり、人の安宅なり)と「仁」=「安宅」という図式がみられ、尽心・上・第三十三章には、「居悪在、仁是也、路悪在、義是也(居悪<いず>くにか在る、仁是なり、路悪くにか在る、義是なり」と述べられています。


 すべての人が互いを思いやり、また人の行うべき道を行うなら、世界はとても平和になるのでしょうが、いつの時代にも犯罪や戦争が起こるのは事実で、こればかりはなかなかうまくいきません。でも、それらが、たとえ防ぐことができないにしても、一人一人が、相手のことを尊重しようと努めることは決して無駄ではないし、意味のあるものだと思うのです。
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2006年07月19日

暗送秋波

●48.暗送秋波(あんそうしゅうは)

【意味】ひそかに流し目を送って、相手に媚びること。「秋波」は、秋の澄んだ水波のこと。ここから転じて美人の涼しい目もとを指すようになり、女の人の媚びる目つき、流し目を表すようになった。

※参考
 この四字熟語を慣用句的に書けば、「秋波を送る」となります。これは、もともとは、女性が異性に対して流し目を送るという意味ですが、政治や経済などの話題で、相手を引き込む際の駆け引きを形容して使われることも多いです。
 また、「秋波を送る」は、李いく(火へんに「日+立」)の「菩薩蛮(ぼさつばん)」という詩の次の部分に由来します。「眼色暗相鉤、秋波横欲流」(眼色暗<ひそ>かに相<あい>鉤<いざ>ない、秋波横ざまに流れんと欲す)「目でひそかに誘う、その媚びる目があふれんばかりに流れてくる」からです。
 李いくは、中国の五代十国時代の南唐の第三代皇帝でしたが、政治的手腕はほとんどありませんでした。その代わり文学的な才能はめざましく、当時勃興しつつあった詞をはじめとして書や絵画にもその才を発揮した人物です。

 秋は冬の前でどことなく寂しげな感じがありますが、その一方で紅葉をはじめとして風景が美しいという印象も見る者に抱かせます。その点で二面性があるといえそうです。例えば、秋思(しゅうし)といえば、秋に感じるものさびしい思いを指し、前者のニュアンスが出ていますが、一方で、「秋波」は、この後者にあたる典型例です。
 「秋」に関して、少し興味深いのが、「秋娘」(しゅうじょう)という表現です。これは、一般には美人を指すのですが、風景ではなく、唐の謝秋娘・杜秋娘という美女からきたものです。しかし、「秋」の寂しげな感じが類推させたのでしょうか、年を経て容色の衰えた女の人を指すようにもなりました。
 いわば、まったく対照的な二面性を指す語ですが、ことばは本来の意味を離れ、いかようにも多義的な意味を伴いうることの例で、またそこがことばの面白いところでもあります。
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2006年07月18日

暗箭傷人

●47.暗箭傷人(あんせんしょうじん)

【意味】暗に人を傷つける行為を指す。「暗箭」は、暗闇から放たれる矢のこと。「傷人」は、人を傷つけること。

※類義語
暗箭中人(あんせんちゅうじん)
 ここで、中は的中すると言う意味で、全体の意味は、「暗箭傷人」とほぼ変わらない。これは、宋·劉炎の『迩言(じげん)』第六巻「暗箭中人、其深次骨、人之怨之、亦必次骨、以其掩人所不備也」に由来するとされる。

 暗箭傷人は端的に言えば、「誹謗中傷」を暗に行う、ということです。最近は通信手段が発達した結果、なにかと便利になり、直接自分が出向かなくてもさまざまなサービスを享受することができますが、その一方で、顔の見えない相手からいわれのない中傷を受ける危険性というのも持っているわけです。その意味では、便利さの裏には、やはりそれなりの規則の整備やマナーが求められるということですね。

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2006年07月17日

按図索驥

●46.按図索驥(あんずさくき)

【意味】理論ばかりに頼って実際には役に立たない意見のこと。「按」は、調べる。「索」は、「捜索」で使われる「索」で、探し求めること。「驥」は、一日に千里を走るという優れた馬のこと。

【出典】『漢書』(梅福伝)「今不循伯者之道、乃欲以三代選挙之法取当時之士、犹察伯楽之図求騏驥于市、而不可得、亦已明矣。」より。
 有名な相馬師(馬の良否をという判断する人)だった伯楽は、その晩年に『相馬経』という本を著した。その息子は、馬にも乗ったことがなかったにもかかわらず、父の書を頼りに、馬を見極めようとしたという故事から。上記は、そんなことをしても結局は得られないのが明白だ、としています。

※類義語
按図索駿(あんずさくしゅん)

※「図を按じて驥を索(もと)む」と書き下して読むこともある。

※参考
 「驥」については、『論語』にも「驥不称其力、称其徳也」(驥はその力を称せず、その徳を称するなり)「優れた名馬はその力をほめられるのではなく、その徳<性質の良さ>をほめられるのだ」として見られるように、古来より価値のあるものでした。
 汗血馬(かんけつば)もほぼ同じものです。汗血馬で知られる故事としては、前漢の武帝の時代に、西域へ使わされた張騫(ちょうけん)が、大宛(フェルガナ)にこの名馬がある、ということを報告した場面です。このときは、結局得られませんでしたが、後に李広利(りこうり)が、この地から汗血馬を持ってくると、武帝は非常に喜び、「汗血馬こそが天馬」だと賞賛したとされます。

 伯楽は、馬の良否を見分けるのにとても長けた人だったので、そこから、「名伯楽」というように「伯楽」といえば、人物を見抜く眼力のある人をも指すようになりました。
 『相馬経』は、従来伝わっていませんでしたが、1973年に馬王堆墳墓から、それとみられるものが出土されました。芥川龍之介の「馬の脚」という作品には、「わたしは馬政紀(ばせいき)、馬記(ばき)、元享療牛馬駝集(げんきょうりょうぎゅうばだしゅう)、伯楽相馬経(はくらくそうばきょう)等の諸書に従い、彼の脚の興奮したのはこう言うためだったと確信している。」として出てきます。
 主人公忍野半三郎(おしのはんざぶろう)は、ある日突然倒れ、生命を失いましたが、本人は何も死んだという意識がない。足だけが腐っているということが分かったのですが、緊急ゆえ、どうすることもできず馬の脚で代替させられます。その後、半三郎は復活し、意識が戻ったのですが、馬の脚は戻らない。ある日、突然半三郎の脚が躍りだしたのですが、この理由を筆者が代弁して探求するくだりが上の部分です。なんとも不思議な話ですが・・・。


 この四字熟語は、上記のようにもともとは馬から生まれたものです。四字熟語や慣用句には、生き物を素材にした表現が多くありますが、それは私たちが知らずと自然に眼を向けてきたという事実の表れなのかもしれません。

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